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カテゴリ:思想・理論

 「人間は自由の刑に処せられている」 というのも、サルトルの有名な言葉の一つだが、この言葉は次のような文脈の中に登場する。

 いかにも、もし神が存在しないならすべてが許される。したがって、人間は孤独である。なぜなら、人間はすがりつくべき可能性を自分の中にも自分の外にも見出し得ないからである。人間はまず逃げ口上をみつけることができない。もしはたして実存が本質に先立つものとすれば、ある与えられ固定された人間性をたよりに説明することはけっしてできないだろう。

 いいかえれば、決定論は存在しない。人間は自由である。人間は自由そのものである。もし一方において神が存在しないとすれば、われわれは自分の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことはできない。こうしてわれわれは、われわれの背後にもまた前方にも、明白な価値の領域に、正当化のための理由も逃げ口上も持ってはいないのである。

 われわれは逃げ口上もなく孤独である。このことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。刑に処せられているというのは、人間は自分自身を作ったのではないからであリ、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界の中に投げ出されたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。
『実存主義とは何か』 より 


 このようなサルトルの言葉には、たしかに人を魅了する力がある。そこには、また人間の行動を単なる刺激への反射の総計としてしか見ない、言い換えれば 「パブロフの犬」 扱いにする種々の論理に対する抗議を読み取ることもできるだろう(もちろん、イヌだってサルだって、もしも口がきければ、そのような扱いにはきっと抗議するだろう)。

 だが、言うまでもないことだが、現実の人間は否定的な意味であれ肯定的な意味であれ、サルトルが言うように<自由>ではないし、裸で<世界>の中に投げ出されているわけでもない。むろん、そういう批判に対しては、サルトルが論じているのは人間という存在の本質的な条件なのであり、哲学的な反省なのだというような反論が返ってくるだろう。

 実際、サルトルは前掲書に収められた講演後の討論の中で、「人間は時代に左右されるものであって、人間の本性に左右されるものではない」 と答えており、実際の人間が歴史と社会によって規定された存在であることは認めている。

 たしかに、個々の人間を規定している社会や歴史の状況は様々に違っている。だから、そのような個々の事実自体は特殊なもの、非本質的で偶然的なものとして、捨象可能かもしれない。しかし、そのような個別の事情を捨象したとしても、人間はつねになんらかの社会と歴史、さらには物質的な世界そのものによって規定されているという事実は残るのであり、そのこと自身は人間の条件として捨象不可能なことだろう。

 サルトルは無神論的実存主義者として、人間には<実存>に先行する<本質>は存在しないという。それは、その<本質>なるものが、椅子の椅子としての<本質>というような意味であるかぎりでは正しい。しかし、そのことから 「人間は自由である」 というように断言するとき、彼は自身が批判する人間の 「抽象的本質」 なるものを措定する論理と同じ誤りに陥っているように見える。

 一切の歴史性を剥ぎ取られて、世界の中に裸で投げ出されている人間とは、もはや単なる抽象物でありお化けでしかない。 いわゆるヘーゲル左派の1人であるシュティルナーはその唯一の著書 『唯一者とその所有』 の中で、フォイエルバッハの 『キリスト教の本質』 に対して、彼は神を廃棄したかわりに、抽象的な 「人間なるもの」 をその位置に置いているに過ぎないと批判したが、この批判は、人間のみを自然存在の中で特権化し、人間の自由と主体性を極度に称揚するサルトルの哲学に対しても同じように当てはまる。そこでは、人間の 「自由」 なるものが、人間の非歴史的な 「抽象的本質」 として提出されているにすぎない。

 人間は直接に自然存在である。自然存在として、しかも生きた自然存在として、彼は一方では自然的諸力、生の諸力を備えており、一つの活動的な自然存在であって、これらの力はもろもろの素質や堪能性として、衝動として現存している。他方では彼は自然的な、身体的な、感性的な、対象的な存在として、動物や植物もまたそうであるように一つの受苦的な、条件付けられた、制限された存在である。


 マルクスは 『経哲草稿』 の中の 「ヘーゲル弁証法および哲学一般の批判」 でこのように述べ、自然を含めた<世界>によって条件付けられていない哲学的な意識のみで自足した存在に対して、「非対象的な存在は一つの非存在(化け物)である」 とまで言い切っている。

 このような 「制限された存在としての人間」 とでもいうべき思想が彼の生涯を貫ぬくものであったことは、この30年後に書かれた 『ゴータ綱領批判』の中で、「労働はすべての富とすべての文化の源泉である」 という綱領の一文に対置されている 「労働はすべての富の源泉ではない。自然もまた労働と同じ程度に諸使用価値の源泉である」 という言葉からも見て取れるだろう。

(2009年9月26日:一部加筆)






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Last updated  2009.09.26 15:31:40
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