日本国憲法成立まで(その1)
 
 昭和21年2月13日午前十時、コートニー・ホイットニー准将は、ケーディス陸軍大佐、ラウエル陸軍中佐、ハッシー海軍中佐の三幕僚と共に、麻布市兵衛町の外務大臣官邸を訪れた。外務省官邸はアメリカ大使公邸のふた筋ほど、南の角にある。これを迎えた日本側のメンバーは、外務大臣吉田茂、憲法担当国務大臣松本丞治、通訳にあたる外務省の長谷川元吉、そして白洲次郎の4人であった。 そのテーブルの上には、紙やノートがちらかっていた。それは先にホイットニーに提出された松本案に関するものと思われた。
 ホイットニーは、向い側に座った日本側代表の顔にまともに日光が当るように、太陽を背にして坐った。席につくや否や、ホイットニーは、
「最高司令官は、日本側の憲法改正草案は、民主主義の線に沿う日本政治機構の広範な自由主義的改組の線からはるかに遠いものであり、それを連合国側において、日本が戦争と敗戦の教訓を学び取り、平和的社会の責任ある一員として行動する用意のある重要な証拠とみなすことができず、受諾できないものです」
と、一語一語念を押すようにゆっくりと発言し、松本案についての討議を抑えた。
そして、
「しかしながら、日本国民が過去にみられたような不正と専断的支配から彼等を守ってくれる自由で開明的な憲法を非常に強く必要としているということを十分に了解している最高司令官は、ここに持参した文書を、日本の情勢が要求している諸原理を基盤しているものとして承認し、私にこれをあなた方に手交するよう命じました。この文書の内容については、あとでさらに説明しますが、それをあなた方が十分理解できるよう、私も私の属僚も、ここで退席し、あなた方が自由にこの文書を検討し討議できるようにしたいと思います」
 ここでホイットニーは『一芝居打った』〈コートニー伝)という。
「日本側に強制はしないけれども、最高司令官は、憲法問題が総選挙が行われるよほど前に、国民の前に提示されなければならないと決定しています。そこで、日本国民が憲法改正問題について、論議する十分な機会が与えられると同時に、その意思を自由に発表すべきであります。したがって内閣が総選挙前に適当な、また受諾できる草案を用意できなければ、総司令官は、この原則に関するステートメントを国民の前に直接提示する用意もあります」
 この言葉が日本側に与えた効果はてきめんだった。白州次郎氏は、何か変なものの上に腰かけたかのように、姿勢をまっすぐした。松本博士は息をのんだ。吉田外相の顔はひどく曇った。
 吉田外相と官邸に起居していた白洲氏は、すっかり困ったような顔をしながら、ともかくホイットニーたちを外相官邸の美しい庭園に面した他の部屋に案内した。
 その間、吉田と松本は総司令部側の出してきた日本国憲法のモデルプランを読んでみた。のちに松本が憲法調査委資料として提出したものによると、
〈さっそく、どういうことが書いてあるかと思ってみると、まず前文として妙なことが書いてある。それから天皇は象徴である、シンボルであるという言葉が使ってあった。憲法のようなものに、文学書みたいなことが書いてあると思って大いにびっくりした。また国会は、一院制で衆議院しかない。それから国民の権利義務に当たるところには、いろいろ細かい規定が書いてあって、その中に驚くべきことには、土地その他の天然資源は国有とする、ただし適当な補償は払うという規定があって、これには一番驚いた。
 そういうものをめくってみて、たいへん驚き、約20分ほどみたが、これではとてもだめだ。こんなものを即答することができないから、持って帰るより仕方がないと相談しているうちに、先方は席に戻った。〉
 席に戻った総司令部の四人に松本は、
「「草案を読んでその内容はわかったが、自分の案とは非常に違うものなので、あなた方でお出しくださった提案については、即座に何ら意見を開陳することができないから、十分に熟読し,熟考し、かつ諮るべきところに諮ったのち意見を申し述べる。ただこれだけは念のためうかがっておきたいが、あなたの提案では議会は一院制をとっておられるが現在世界の大国で一院制をとっているものはほとんどない。どういう理由でそういうことにされているのか?」
と質問した。ホイットニーは、
「日本にはアメリカのように州というものがない。したがって上院を認める必要なない。一院の方がかえってシンプルではないか」
と答えた。松本は重ねて、
「それについてちょっと述べていが差し支えないか」と前提し
「各国がニ院制をとっている理由はいわゆるチェックするためで、多数党が一時の考えでやったようなことを一応考えなおすことが必要なために二院制をとっているのである。これはすべて議会制度のことを論じている学者がひとしく認めているところである」というと、総司令部側は、「二院制のチェック・アンド・バランスということはそんなものか、ということを知ったような有様であった」と松本はのちに術懐している。
 最後に、ホイットニーは、
「さて、みなさんにこの文書の内容をよくみていただいたわけですが、これまでどおりわれわれはすべて手のうちを見せあって行きたいと思いますので、最高司令官がこの文書をあなた方に提示しようと考えるにいたった真意と理由とについて、説明を加えたいと思います。最高司令官は、最近各党が企にした政綱が憲法改正を主たる目的としていることを知り、また国民の間に憲法改正が必要だという認識が次第に高まっていることを知りました。国民が憲法改正を獲得できるようにするというのが、最高司令官の意とするところであります。・・・あなた方が御存知かどうか分かりませんが、最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。これまで最高司令官は、天皇を護ってまいりました。それは彼が、そうすることが正義に合すると考えていたからであり、今後も力の及ぶ限りそうするでありましょう。しかしみなさん最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰(あんたい)になると考えています。さらに最高司令官は、これを受け容れることによって、日本が連合国の管理から自由になる日がずっと早くなるだろうと考え、また日本国民のために連合国が要求している基本的自由が、日本国民に与えられることになると考えております。最高司令官は、私に、この憲法をあなた方の政府と党に示し、その採用について考慮を求め、またお望みなら、あなた方がこの案を最高司令官の完全な支持を受けた案として国民に示されてもよい旨を伝えるよう、指示されました。もっとも、最高司令官は、このことをあなた方に要求されているのではありません。しかし最高司令官は、この実に示された諸原則を国民に示すべきであると確信しております。最高司令官は、できればあなた方がそうすることを望んでいますが、もしあなた方がそうされなければ、自分でそれを行なうつもりでおります。みなさん、最高司令官は、この文書によって、敗戦国である日本に、世界の他の国々に対し、恒久的平和への道を進むについての精神的リーダシップをとる機会を提供しているのであります。」
と述べると、日本側は明らかに愕然とした。吉田茂はホイットニーが話している間、両方の掌をズボンにこすりつけ、これを前後に動かしていた。吉田茂の顔はショックと憂慮の表情を示していた。それから、ホイットニーはケーディスらに、憲法草案を渡すように命じた。コピー番号6番が吉田に、7番が松本に、8番が長谷川に、9番から20番までが一括して白洲氏に手渡された。白洲は全員に代って受領証に署名した。
 ホイットニーは最後に、
「最高司令官マッカーサーが天皇を戦犯として取り調べようという圧力から天皇を守ろうと思っていること、この憲法が受け容れられれば「天皇は安泰」になること、日本国民のために連合国が要求している基本的自由が、日本国民に与えられる」
と考えていることを告げた。また、
「マッカーサーはこの憲法の案を受け容れることを「要求」しているのではないが、もしあなた方がこの案に示された諸原則を国民に示すことをしないならば、自分でそれを行うつもりであること、そしてこの案を受け容れることが数多くの人によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の機会であり、あなた方が〔権力の座に〕生き残る期待をかけうるただ一つの道であるとマッカーサーは考えている」
と告げた。
松本博士は草案中の国会に関する規定について、
「そこでは一院制が採られているが、これは日本の立法府の歴史的発展とは全く無縁のものである。従ってどういう考えでこの条文が作られたかを知りたい」
と述べた。これに対しホイットニーは、
「華族制度が廃止になること、この草案の「抑制と均衡の原理」のもとでは一院制の議会をおくのが簡明であること、アメリカの下院に相当するものは必要がないと考える」
と述べた。再度、松本が二院制の長所を述べると、ホイットニーは
「この憲法草案の基本原則を害するものでない限り、博士の見解について十分討議がなされるであろう」
と答えた。吉田は、
「すべて総理大臣に報告せねばならぬこと、総理大臣および閣議の意見を徴してから、次の会談の機会をもちたい」
と述べた。最後に、ホイットニーは
「次の会談の日取りを知らせてほしい」
と言った。
 ホイットニーは、立ち上って帰る時に、白洲氏に「帽子と手袋とを取って来てもらいたい」と言った。白洲はふだんは非常に穏やかで優雅な人だが、あわてて玄関の近くの控えの間に走って行き、そこで帽子と手袋をヴェランダの隣りの書斎に置いたことを思い出して、急いで戻って来、ホイットニーの帽子と手袋をとり、ホイットニー将軍に渡した。ホイットニーと三幕僚は、午前11時10分に官邸から立ち去った。
  
 松本国務相は、外相官邸からすぐに幣原首相を官邸に訪問し、総司令部のホイットニーが憲法のモデルプランをもってきたことを説明した。その結果、一応、日本側としては、すぐに閣議に出すことはせずに、松本が再説明書を出そうということに決めた。2月18日、総司令部に、松本が書いた『憲法改正案説明補充』と題するものを提出した。松本の憲法改正案説明補充は、6000字に及ぶ長文であるが、まとめていえば、憲法改正は、日本には日本のやり方があるから、急速な改正は日本にとって良くないというものであった。総司令部のケーディスはこれを一読するすると、すぐに
「これは保守主義者の常套用語だ」
と即断し、再説明書を受け付けず、
「こんなものを考慮する必要はない。総司令部案が指示した基本的条項はもはやこれ以上再考する余地は全然ないのだ。この案を基礎として進行するする意思があるかないか、20日までに回答しなさい。もし回答がなければ総司令部案を公表し、日本国民の世論に訴える」
と、すこぶる高圧的、威嚇的な態度でいった。
 それまで閣僚にも秘匿していた総司令部案を ようやく19日の臨時閣議で公表し、これまでの経緯を説明した。閣議で、幣原がマッカーサーと会うことになり、20日の回答を22日まで延期した。
 21日に幣原はマッカーサーに会うと、マッカーサーは
「極東委員会の論議は日本にとって実に不利な情勢にある。ソ連や豪州は依然として日本を著しく日本を恐れているのみか、天皇制についても最も激しく反対している。自分としては、天皇制についても天皇制を維持していきたいと思うから、この際はできるだけ早くこの憲法の基本原則を日本政府が受け入れることが必要である」
と率直に要請した。それで、ともかく天皇に報告したうえで決めようということになり、幣原首相、吉田外相、楢橋書記官長をともなって天皇に拝謁し、御意見をうかがうことになった。天皇は、
「最も徹底的な改革をするがよい。たとえ天皇自身から政治的機能のすべてをはく奪するほどのものであっても、全面的に支持する」
という。それで幣原は最後の腹を決めて、閣議に臨み、詳細な報告を行った。
 吉田と松本、ホイットニーと会見は翌日、いろいろ質問し、2月26日松本国務大臣を中心にして、マッカーサー憲法草案を土台にして、改正案の起稿に着手した。3月11日をめどに極秘で作業を始める。その間、総司令部から矢のような催促があり、3月2日に完成した政府案を日本語のまま、3月4日に提出した。
3月4日 午前10時、第一生命ビル6階民政局602号室で改正案の検討会が行われた。日本側からは、松本国務大臣、佐藤達夫法制第一部長、白州次郎終戦連絡事務局次長、外務省の小畑薫良 長谷川元吉が出席。民政局側からは ホイットニ―、ケーディス、ハッシ―、ロウスト、プール、通訳としてベアテ・シロタが参加した。
 松本は、ホイットニーに、この案は、まだ閣議決定を経ない試案にすぎないという説明からスタートした。日本側はこれを叩き台にして、折衝を続け、時間をかけて書く提案にしていくものと考えていた。しかし、ケーディスは、その案をすぐさま翻訳に回し、英文が出来上がるごとに検討を始めた。そして、第一条から、国民主権の部分が、カットされている、と怒り、このような案では、審議はできないといい出した。
 なんとか第一条をまとめて、次は第二条というふうに進み始めたが、第三条で、天皇のすべての国事行為には「内閣の助言と同意(The advice and consent of the Cabinet)という箇所が「〈輔弼〉を必要とする」に変えられていると、また激論に火がついた。
〈アメリカ側は内閣の「コンセント」を必要とするになっている先方案を改めて、これを単にアドバイスを意味する輔弼だけとしたのはなぜか、と詰問した。そこで松本は輔弼をアドバイスと訳すのは適当ではないと思うが、輔弼なくしては天皇はなんらの行為も有効におこなうことはできない。輔弼が憲法上の要件である以上、これをかかげて十分ではないか,協賛の語は議会に限って用いられてきたものであり、この場合にこれを使うのはおかしいと答え、卓がふるえるぐらいに激論を交わした。
 ・・・・松本は午後二時半ころまで司令部にいたが、先方〈松本の弁)は相当に興奮しているので、激論激化の結果、他日に妥協の余地を滅殺することを恐れ、佐藤に後のことを卓して、用務にことよせて帰り、幣原首相に報告した」と憲法調査会資料にある。
 この激論は「コンセント」に対応する「賛同」という日本語を発見して一件落着する。激論を重ねていた4日の午後6時、民政局側から、
「今晩中に日本国憲法のファイナル・ドラフト〈確定草案〉を作成することになった。日本側もこれに参加してもらいたい」
という申し入れがなされた。この作業を、執務室でずっと待機しながら見守っていたマッカーサーが、ホイットニーに命じたらしい。
 会議は結局、5日の夕方の四時過ぎまで行われて、ようやく終わった。
 3月5日は朝から閣議が開かれた。そこに総司令部で審議が終わった条項の草案が次々に運び込まれてくる。それを受けて審議が進められた。しかし、ここは問題だから修正したいなどとGHQ側に打ち返せるような状況にはなかった。午後に入って総司令部側から、今日中に草案を発表したい、という申し入れが来るが、日本側は日本文を推敲するする時間がないので、何とか発表を明日にのばせないか、と申し入れる。この時点で6日の発表は決定的となった。
 夕方、幣原と松本が宮中に参内して、天皇に、憲法改正についての勅語を出していただくことを奏請する。天皇は、
「今となっては仕方あるまい。勅語通りでよろしい。しかし、皇室典範改正の発議権を留保できないだろうか・・・・」。
と裁断を下す。〈のちの閣議で断念された)
 午後8時になって、総司令部に出かけたままだった吉田外相も戻ってきて、再び閣議が開かれる。アメリカ案の翻訳の全文が閣僚に配布された。これはいかにも翻訳調でごつごつした文章だったので、阿部文部大臣が手直しすること、発表は要綱の形で行うこと、などが決まり、閣議は午後9時15分に終わった。
 3月6日、朝9時から引き続き閣議が開かれた。前文の字句修正などが行われ、午後5時に新聞発表という形になった。
       要綱の形で発表された日本国憲法の戦争放棄に関する条項の部分は次のようである。
『第二 戦争ノ抛棄

第九 国ノ主権ノ発動トシテ行フ戦争及武力ニ依ル威嚇又ハ武力ノ行使ヲ他国トノ間ノ紛争ノ解決ノ具トスルコトハ永久ニ之ヲ抛棄スルコト
陸海空軍其ノ他ノ戦力ノ保持ハ之ヲ許サズ国ノ交戦権ハ之ヲ認メザルコト』
 
 その後、4月17日、条文形式に整えた「憲法改正草案」が公表された。そこでは、戦争放棄条項は、次のように規定されていた。
 
 『国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は、認められない。』

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