広島にある憲法九条碑
私どもが広島にある憲法九条碑を訪ねたのは、2010年11月29日のことである。広島はいうまでもなく人類最初の原子爆弾が落とされた都市で原子爆弾の悲惨さ、むごさを示す『広島平和祈念資料館』があり、毎年多くの人々が訪れている。しかしながら、これからの世界の平和を願うものとして、例えば戦争をせず、世界の平和を願う憲法第九条を顕彰した碑がない。これは一つには現行憲法が必ずしも国民すべての参道の下に作られたものではなく、アメリカ軍から”押しつけられた“ものとして自主憲法の制定を望む勢力が、今も存在し続けているという事情もあるものと思われる。
そのなかで、広島にも憲法九条碑が建立されているところが一か所だけある。その碑を見に行くことが今回の目的である。それと私どもがもう一つどうしても見ておきたかった碑が広島にある。それは私の義理の父である松島政夫という人がいるが、その人が終戦直前、広島の呉市の近くにある倉橋島というところで、特殊潜航艇の乗務員として訓練を受けていたとされるところを見に行くことであった。
そこで今回の旅行は、 @ 倉橋島の特殊潜航艇の基地の後を見に行く。
A 広島県にある憲法第九条の記念碑を見に行く。
という二つの目的のために広島に出かけた。私の住んでいるところから広島まで夜行バスで行き、広島駅近くからレンタカーを借りてまず倉橋島方面に出かけた。 倉橋島は現在は呉市の一部、倉橋町となっている。音頭の瀬戸という橋でつながっており、車に乗車したまま島まで行くことができる。かつて日本海軍(陸軍?)はここにP基地、Q基地という秘密基地を作り、特殊潜航艇を生産して、秘密裏に乗務員を招集して養成し、敵の軍艦を水面下から攻撃する計画を立てる。私どもの家内の父、松島政夫もその一人である。
この島で作られた特殊潜航艇は『鮫竜』というもので、本土決戦に備えるべく1945年には150艇生産され、なお450艇が生産される予定であったという。全長26メートル余り、定員5名の小さな艇であったが、終戦とともに全部廃棄処分されたという。今回の旅で、戦艦大和の模型を展示している『呉市海軍歴史科学館 大和ミュージアム』という所にも行って『鮫竜』の実物などが残されていないか、問い合わせてみたが係員の返事は「ない」ということであった。
特攻基地大浦崎(P基地) 昭和17年10月極秘裏に工場の建設が始められ、翌18年3月に操業開始これが特殊潜航艇(甲標的)制作専門の呉海軍工廠分工場であった。また時を同じうして搭乗員の養成が始められ、受講者は艇長、艇付、合わせて2600名、内戦死者は439柱に及んだ。 当基地の任務は甲標的の生産、搭乗員の養成、特攻兵器の研究開発で、昭和20年になると甲標的丁型(鮫龍)の完成をみ、 一方回天(人間魚雷)も実用段階に達して、来たるべき本土決戦に備えたが、同年8月15日終戦を迎えて基地は廃止され、現在では平和な公園、町民いこいの場所となっている。 平成4年2月 建立 |
インターネットで特殊潜航艇『鮫龍』について調べてみたら、いくつか見つかった。
そのひとつには次のように書かれている。
『・・・・実際の戦果 日本の甲標的は、1941年の開戦時における真珠湾攻撃や1942年のシドニー港攻撃やディエゴ・スアレス港の攻撃等に投入された。ディエゴ・スアレスにおいて戦艦ラミリーズを大破させたが、その他は真珠湾攻撃時の戦果も不詳であり、大型艦船の撃破は無きに等しかった。・・・・』
特殊潜航艇『鮫龍』は二発の爆弾を搭載し、それを発射したら基地に戻るように造られた潜水艇でその乗務員も秘密裏に集められて、本土決戦に備えて、訓練も行われていたようであったが、敵艦に遭遇することはなかったようである。
松島政夫は当時倉橋島の秘密基地で訓練を受けていた。当時22歳であった。戦局の悪化に伴い、特殊潜航艇の指揮官を命ぜられて日夜訓練に明け暮れていた。呉港に停泊していた戦艦日向が敵の戦闘機の餌食となり撃沈するのを目撃し、同期生とともに司令官宛てに出撃血書嘆願書を提出し、即日採用され配置が決められ、死との対決を迫られるなか、1945年8月6日の朝を迎える。
『・・・8月6日は第二特攻戦隊司令官の査閲の日で第二種軍装に着替えて司官次室の廊下に出た瞬間でございました。閃光一せんピカッと光ったと思った同時に司官舎がビリビリと揺れ、瞬間地震かと思ったくらいでした。そこで初めてきのこ雲を見たのでございます』
松島は、広島で、両親と暮らす一人息子として育てられていた。昭和18年姫路高等学校の学生であったが、戦局の悪化とともに学徒動員令が施行されて海軍に籍を置き、倉橋島にいたのであった。松島は広島に住む両親の安否を心配せずにはおられなかったが、軍籍にあったのですぐには様子を見に戻ることもできなかった。ようやく広島に帰ることができたのは復員業務の合間に休暇を取った九月初めのことであったという。
『戦後初めて広島駅に降り立ってびっくり致しましたのは駅のたたずまいで、田舎の無人駅そのままで、プラットホームがあり仮説の出札口があるのみ、プラットホームからは遠く己斐の山々まで一望の内で、荒漠たるがれきの荒野といった感じ、かえって何もなくなって見通しがきくどころか、住みなれた町のはずなのに、どちらに行ってよいのか、自分の家すらその方向なのかとまどう様でした。街行く人の影もまばらで、とにかく瓦礫の上を歩いた処が道になっているという感じでした。かろうじて饒津神社(にぎつじんじゃ)の森らしきあたりに見当をつけて歩いていきますと見慣れたはずの橋が全く焼け落ちてなく、常盤橋までたどりついものの、この橋とて欄干はとんでなく、田舎の石橋を思わせる姿になっていました。
道行く人も下を向き、真っ黒な顔をして目はうつろにトボトボと歩いていました。橋を渡った川っぷちに私の家はありましたがレンガ塀に覚えがあり、そのとき丁度女の人が裸の水道水のところで洗い物をしているのが目に止まり、一度尋ねてみようと下に下りて行ったのです。真っ黒な顔、ワンピースのような異様な服を着た女の人が食器用の物を洗っているのに声をかけたのでございます。目と目があったとき女の人と私は一瞬棒立ちになったまま、口もきけず、しばらくして「アラ」と一言、「お母さん」と私の口から声が出たのが母や父との再会でございました。母と一緒に小屋に参りますと、板敷の上に毛布を敷いて横になっていた父は、何日も風呂に入っていないのか、少し痩せて、真っ黒な中から目だけギョロつかせて、「帰ったか」「只今帰りました」と、これも一言親子で顔を見合わせるばかりでありました。(両親は)あの子が帰ってくるまでは、と知人や親戚の者の声にも耳をかさず、焼けトタンのヒサシの下で雨露をしのいで私の帰りを待っていてくれたのでした。食べ物と言えば瀧代のおにぎりに沢庵漬をもらっては母と二人でさぞ空腹と疲れでくたくたであったであろうに「無事でよう帰ったのう』と私をねぎらってくれる父、私は涙で唯唯父母の手を握る以外には方法がなかったのでございます。・・・
(原爆が落ちた時)私の父は玄関で出勤前の靴磨きをしていたそうですが、ピカッと光ると同時にドンという音を聞いてからは全く分からなくなり、気がついた時には奥の座敷まで飛ばされていたそうで、母は台所にいて瞬間梁の下敷となり腰を打って動けなかったと話していました。二人とも、とるものもとりあえず、着の身着のままで家の前の河原に逃げ、いっときしてから必要品を取りに家に引返し,僅かな物を持ち出すころから近所より火が出て、、またたくうちに一帯は火の海になり、山に向け生き残った人たちと逃げて行ったのでございます。昼すぎて父は焼け跡に帰り、焼け残った木切れや、トタンを集めて、川べりの煉瓦塀に掘立小屋を作り、夕方には母を連れて帰り、友人の奨めも断って、それから一カ月乞食のような生活が始まったと申していました。
その時、父は
「政夫が帰ってきたときにわしらがここに居らなんだら、あれも力を落とすだろうし、捜し回るだろうから、あれが帰るまではのう」
と一言いって、近所から集まってくる被災者の人たちのお世話に走り回っていたと話していました。・・・ 現在の原爆公園となった原水禁運動のメッカになっている中の島は広島の繁華街八丁堀の副都心部で映画館あり、夜になればカキ舟が何そうも元安川畔に浮び、川面にきらめく灯が人の目を惹いたものでした。
この美しい川も昭和20年8月6日の夕刻には原爆被災者の焼けただれた屍体で埋まったと聞いています。広島の川は潮の満ち引きがあり干潮満潮につられて屍体も川上に上がったり川下に下がったりする光景はさながら地獄絵図であった父より聞いたことがございます。
しかも水際までたどり着いた人もそこで倒れたまま身動き出来ず、痛さと死に切れぬ恐怖でうめき助けを求める声は二昼夜も続き、塩も満ち引きに下半身を水につかったまま川岸にしがみついた被災者の一つ又一つと声の絶えていく様を見ながらどうにもしてやれぬ悔しさ、あわれさは今でも耳の底について離れぬと話していました。・・・
その父も昭和27年に食道癌で、被爆から20年も経った昭和40年に原爆症で母を失った時は、私の一生でしみじみと原爆のむごさを呪ったことでございました。」
(『夫松島政夫の記録 青藍』松島芳子編 平成7年3月14日 三友社 より、数か所抜粋し、再構成した)
私どもは、戦争が終わってから10年後に生まれた者であるが、かつて日本で戦争があり、広島に落とされた原爆の惨状を説明してあまりあるこの文章はぜひとも紹介しておきたかった。
かつて日本海軍の特殊潜航艇の基地があったという呉市の倉橋島は、今はP基地、Q基地のあったあたりに小さな記念碑がたてられているばかりで、今は町民の憩いの場となっている。P基地跡のグランドのそばには『特攻基地P基地」として小さな石碑が建てられており、上部、右記のような碑文があり、倉橋町にある八幡神社の「鳴乎特殊潜行艇」(昭和四十五年八月特殊潜行艇関係者有志建之)の裏にある「建碑記」には,右記のようなことが書かれていた。
次に私どもが向かったのは、広島にある憲法九条碑である。これは栗原真理子氏が反戦詩人であった栗原貞子氏の墓地の隣に作ったものである。
墓地は広島市内から北に車で30分ほど行った所の住宅地の中にあった。なかなか場所が分かりにくく、あちこちで教えてもらいながらようやくたどり着いた。
現在墓所を管理している栗原貞子氏の長女である栗原真理子氏にも電話で話を伺った。栗原貞子氏は17歳の時に詩作を始め、32歳の時に爆心地から4キロの自宅にいて、一命を取りとめた。以来一貫して反戦詩人として活躍した。代表的な詩、原爆が投下された夜に地下壕で赤ん坊が生まれる様子を書いた『生ましめんかな』は生命の重みが伝わる感動的な作品である。
●生ましめんかな こわれたビルデングの地下室の夜であった。 原子爆弾の負傷者達は ローソク1本ない暗い地下室を うずめていっぱいだった。 生ぐさい血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声。 その中から不思議な声がきこえて来た。 「赤ん坊が生まれる」と云うのだ。 この地獄の底のような地下室で今、若い女が 産気づいているのだ。 マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう。 人々は自分の痛みを忘れて気づかった。 と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と云ったのは さっきまでうめいていた重傷者だ。 かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。 かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。 生ましめんかな 生ましめんかな 己が命捨つとも |
栗原真理子氏によると、『護憲』という石碑と憲法第九条が書かれた石碑は、真理子氏がぜひとも作りたいと設置したものであるという。
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