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2006年07月08日

ソシュールの言葉に対する解釈

シカゴ・ブルースさんから「幼児の頭の中は星雲のようなものか(修正版)」というトラックバックをもらった。ここでシカゴブルースさんは、ソシュールの次の言葉

「それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭の確かなものは無い。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。」
(『一般言語学講義』)

に対して批判を展開している。これを見ると、視点の違いによって文章の読み方がまったく違うものになると言うことを感じる。「言語の出現以前」という言葉が何を意味するかという点で、僕はシカゴブルースさんとまったく違う受け取り方をした。シカゴ・ブルースさんは、これを文字通りまだ言語が話されていない、人間が言語能力を獲得する以前のこととして解釈したように感じる。
しかし僕は、これを現在の自分の状態と重ね合わせて受け取った。つまり、すでに言語能力を持ち、対象に対する認識を言語で表現出来る人間の活動として、何かを言語で語った後の状態と、それを語る前の状態とを考え、語る前の状態を「言語の出現以前」だと僕は解釈した。

つまり「判然としたものは何一つない」という混沌とした状態というのは、言語能力を持った人間が、言語表現をする以前は、「判然としたものは何一つない」という状態なのだと僕は解釈したのだった。この感覚が自分の感覚とぴったり重なったので、ソシュールのこの言葉が僕の印象に残り、これは正しいのではないかという直感が生まれた。まさに、言語で表現される以前は、ぼんやりとそう思っていたかも知れないが、ソシュールによって適切に表現されたおかげで、僕の中の混沌が晴れて判然とした認識が浮かび上がったという感じだ。

僕はソシュールの専門家ではないので、ソシュールが「言語の出現以前」という言葉で本当は何が言いたかったのかという、その真意はこれだと確言することは出来ない。シカゴ・ブルースさんが指摘するようなことを語ったのかも知れない。僕の解釈は大いなる誤読ということも考えられる。しかし、内田さんが語るように、公にされた文章は誤読される権利があると考えれば、そこに自分の考えと一致する意味を見つけたときは、その誤読を大いに利用したいとも思う。

言語を駆使出来る人間が、言語表現をするということは、実は論理を駆使していることと同じことになる。言語を語ると言うことが

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