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2006年06月30日

言語なしの思考は出来るか

僕は、三浦つとむさんの言語論で言語について学んだこともあり、言語という対象はあくまでも表現されたものという前提を持っている。それは空気の振動による音声であったり、文字による表現であったり、形式は違うことはあるけれども、ある物質的存在を鏡として成立するもので、唯物論的に扱うことがふさわしいと思っていた。

だから、ソシュールが言語規範を対象にして言語を考えようとしているという批判を見たとき、表現ではない言語規範を言語として扱うことは間違いではないかと思ったものだ。しかし、言語の現象としての言語規範が言語学の対象として考察されるのはそれなりに理由があることだとも感じる。

三浦さんは言語学の前半で認識に対する考察に多くを費やしている。これは、言語の成立する基礎として認識というものが重要であるという判断からだ。認識そのものは言語ではないが、言語が表現する基になるものとして認識を解明しておかなければ、言語の本当の姿は分からない。
思考という作用も、認識の中に入るのではないかと思う。認識の中でも、感覚と直結した単純なものは、外界の反映という解釈が取りやすい。しかし、必ずしも感覚的につかめない対象に対する知識が、思考の過程を経て得られることはたくさんある。物質的存在が原子によって構成されているという認識は、その最たるものではないだろうか。これは感覚では得られない。深い思考の末に達する認識だ。

この思考と呼ばれる活動は、どのようなメカニズムによって行われるのだろうか。これは論理というものと深い関係があるような気がする。論理は、形式論理にしろ弁証法論理にしろ、そこに論理法則というようなものを設定するが、これはある種の思考の形式を表現しているものと考えられるのではないだろうか。

命題と命題の結合を考えると言うことは、我々の思考がそのような過程を経て発展していくことを反省して論理法則としているのではないだろうか。さらに命題を細かく分析していくと、それは何らかの存在する対象に対して、ある属性を結びつけるという概念同士の結合という活動をしているようにも見える。

例えばある対象を観察して、それが固体であるとか液体である、あるいは気体であるとか言う判断をするときは、その対象の概念と固体・液体・気体という概念を結びつけてそれが「同じ」であるという判断をしているように見える。さらに、対象が気体であれば、空気との重さの差はどうかというようなことを考えるかも知れない。そうする

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